「全ての人が、当たり前の生活を当たり前に過ごせる世の中にする」

少し期間があいてしまいました…

できる限り毎日書きます。

少しずつでも。



私の夢は


「全ての人が、当たり前の生活を当たり前に過ごせる世の中にする」

ことです。


大きな夢で馬鹿げたことだとか無理だとか偽善者だとか言われるかもしれませんが、

これが私の夢で人生の「価値」であると確信しています。


この夢に至るのは振り返ること10年ほど前。

私が医学部入学目指して浪人している時にさかのぼります。

現役の頃はなんとなく医者になることを目指し、受験し浪人してしまいました。

浪人して、改めて「何故自分が医者になりたいのか」考えてみることにしました。


初めのきっかけは、祖母から「おばあちゃんが病気になったら助けてな」というのが4歳くらいだったと思います。それからは自分が医者になるものだと産まれたての雛のように刷り込みされ、それが当然と思って幼少期を過ごしていました。


2つ目のきっかけは憧れる優しくてカッコいい小児科の先生がいたことです。

幼い頃からよく風邪をひき、その度にその先生のところに連れて行かれていました。

その先生は診察の時は白衣を着ず、穏やかで優しく子どもの私に接してくれる理想的な小児科医でした。幼い私の質問にも丁寧に笑顔で答えてくれていました。


ここまではまあよくある話というか、浪人する前から考えていたことなのですが、3つ目が「1番強い」夢のきっかけになります。

浪人中のある日、母に私が3才のころ紫斑病で入院した時の話を聞きました。

その当時の記憶はうっすらとしかありませんが、母からは「入院中も自分のことは自分でやりたいテキパキした子だった」と聞いています。同室の子に私のおもちゃを貸して、「早く返して欲しいなー」という独占欲のあるような子だったと。


本題はここからなのですが、そのおもちゃを貸していた子は「今はもういないんじゃないかな…」と母から言われ私は衝撃を受けました。

幼い子どもが先天的な病気で苦しみ死んでいくということがあることはもちろん知っていましたが、まさか自分のすぐ側であったとは思いもしていませんでした。

私が学校に行って友達とケンカしたり、テストの点数が悪いだの、好きな子にふられただの言って悩んだり落ち込んでいる時に、その子は「学校に行きたい」「友達と遊びたい」「明日も生きていたい」と思い悩み、そして死んで行ったのではないか。

当たり前の生活が当たり前に送ることができず、死んで行ったのではないか。


もし一歩違えば、自分がその子の立場だったかもしれない。

自分は生かされている。

その子の分も精一杯人生を生きなければならない。


そう感じ、そう考えた時、私は涙を流していました。

自分にならできる、自分にしかできないことはないか。

当たり前のことで悩み、当たり前のことで笑えることがいかに幸せなことなのであろうか。

全ての人が当たり前の生活を当たり前に送れる…そんな世の中って素晴らしい!

と感じました。


なので私の夢はその時から、

全ての人が、当たり前の生活を当たり前に過ごせる世の中にする」

こととなり、

そのためにその子のように病気で苦しんでいる子どもたちを1人でも多く救おうと思い、

小児科医になることを決めました。


それから勉強に励み、合格判定ラインもクリアし、いざ本番…

残念ながら不合格でした。


そして滑り止めで受かっていた大学で仮面浪人生としてスタートしたのですが、

そこで運命的な出会いをしたのでした。


福祉とは、"当たり前の生活を当たり前に送れる"ようにするサービス」だと、社会保障論の講義で教授が述べていました。


まさに「これ」だと。

今までは病気を持った子ども達を治すことを仕事にしようと考えていましたが、

世の中には、身寄りのいない高齢者や、現在の医学では治すことができない障害を持った方、親のいない子ども、仕事をしたくても様々な理由で就けない方など数え切れないほど、「当たり前の生活を当たり前に過ごせていない」人がいます。

そんな人達を救うことができるのが「福祉の力」だと。


それから私は医学の道ではなく、福祉の道を進むことに決心しました。